プロフィール

名前;浅見 容甫(あざみ ようすけ)

生年月日;1992年2月7日

血液型;A型

趣味;野球、ゴルフ、車、バイク(車はスポーツタイプ、バイクはネイキッドが好きです。)、音楽(ロックバンドが特に好きです。)、食べ歩き、お酒(日本酒、ビール、白ワイン)

〜Azami’s history〜

埼玉県と群馬県の県境の村、神泉村(現在は神川町)という自然豊かで温かい人が多い村で真面目な父、よく笑う母、そしておしゃれな兄、スポーツマンの弟の5人家族の次男として生まれ育ちました。

実家から見える景色と名物、紅葉と冬桜

“小さいながらもしっかりしている”幼い頃の僕は周りから良くそんな事を言われていました。

家の外では常に周りを見て人に迷惑を掛けないように行動し、すれ違う人1人1人に挨拶をしていた様です。(僕の地元は人口1200人ほどの村なので歩いている人も少ないのですが笑)

しかし家では、1番騒いで1番泣いて…けっこうやっかいなこどもだったのではないでしょうか。笑

僕は幼い頃ウルトラマンセブンのお面が宝物で家の中では毎日付けていました。

左が弟・中央が兄・右が僕


少し割れてしまったりするとセロハンテープで補強しそれをまた被り、毎年お祭りのシーズンが買い替えの時期で、お面だけの為にお祭りに足を運んでいました。

しかしある年のお祭りでセブンのお面が無い事がありました。お面はボロボロだった為お祭りに行く前に捨ててしまい、その日は1日落ち込んでいた様です。

結果的に父がいろんなお祭りを周り、お面を手に入れ僕に買ってきてくれたのですが、新しいお面が届くまでの間、お面を捨てた母には口を利かなかったそうです。母は僕の為を想いとってくれた行動だったと思うのですが…幼い頃の僕には理解ができなかったみたいですね。笑

幼稚園

僕の生まれた村では当時、年少保育という制度が無く、隣町の群馬県の幼稚園に1年だけ通っていました。この幼稚園は母が病気になった時に兄と一緒に1ヶ月限定で特別に通っていたことがある幼稚園で「容甫くんならしっかりした子だから大丈夫」と幼稚園の先生から太鼓判を押していただいていた様なのですが…

ものすごく人見知りを発揮!笑

みんなフレンドリーに接していてくれていたようなのですが、なんとも輪に上手く入る事が出来ず、遊びに誘われて輪に入っても直ぐ抜けて1人で遊んでいたり、それが気に入らなかった女の子にちょっかいを出されることもしばしば…顔を噛まれて顔中歯型だらけで家に帰ったり、追いかけられたり、幼稚園で一日中泣いたりして、親に凄く心配を掛け、先生にも凄く迷惑を掛けていた様です。

そんな幼い頃の私は両親に恥をかかせてしまったことがあります。

隣町の幼稚園では誕生日が近くなると写真つきの誕生日カードを作ります。
内容は写真付きのプロフィールで、生年月日と名前と好きな食べ物を先生が園児に聞き記入していきます。

先生は1人1人にインタビューをしてカードに記入していきます。

先生「Aさんの好きな食べ物は何ですか?」 Aさん「カレー!!」

先生「Tくんは?」Tくん「ハンバーグ!!」

先生「容甫君の好きな食べ物は?」僕「ソースご飯」それだけを私は答えた様です。(笑)

その日の夜先生から両親宛てに1本の電話があったそうです。
内容は「容甫君にちゃんとご飯を食べさせていますか?」というものでした。

好きな食べ物は?という質問に対して「ソースご飯」と答えたので、まともなご飯を食べさせて無いのだと勘違いしたみたいです。(笑)

両親はその連絡を受けて、母は大笑い、父は何とも言えない表情をしていたようでした。(笑)

後で父に「ハンバーグとか焼き肉とか寿司とか、数ある好きな食べ物の中で何故ソースご飯と答えた?お父さん、容甫にちゃんとご飯食べさせて無いと勘違いされたから、次回から好きな食べ物を聞かれたらハンバーグか焼肉って答えて。」と言われた事を鮮明に覚えています。(笑)

1年が経ち年中になると隣町では無く家の近くにある幼稚園に通い始めました。

近所の幼稚園の時、この人数で全員!左から3番目が僕です。

隣町は人数が多く1学年で何クラスもあったのに対し家の近所にある幼稚園は1学年10人位の規模で、そこで私は人見知りをしなくなり、前の幼稚園の時とは打って変わり、近所の幼稚園での僕は、やんちゃで何か問題が起こった際はだいたい私が関わっていました。(笑)

年長になると弟が幼稚園に入園してきました。

弟は生後8ヶ月で歩き始めた出歩きマン、目を離すと直ぐどこかに行ってしまう事が多々あり、幼稚園から何度も脱走していました。

しかし僕と一緒にいる間は大人しくなり脱走しなくなったようで、両親も「容甫がしっかりお兄ちゃんしてくれているから凄く助かった」と言っていました。

やんちゃな事をしつつも弟の前ではしっかりお兄ちゃんをしていた様です。笑

小学校

小学生になると僕の人生の大半を占める野球を始めることになります。
小学3年生の時に私は地元の野球チーム、神泉ファイターズに入りました。

野球チームの監督は、父親の職場の人で昔からよく知っている人で、「おお!容甫も今日から仲間入りか!」と監督の手熱い歓迎に対し僕が返した返事は「呼び捨てにするな!!」だったそうです。

この方は今でもお世話になっている方で、たまに実家に帰ったときに飲みに行くと、当時の話をお酒のつまみにされます。(恥)

今でもあまり身長は大きい方では無いですが、野球を始めた当初は誰よりも身長が小さく野球をプレーしていく中でコンプレックスで、身長が大きい人が羨ましくて仕方ありませんでした。

しかし負けず嫌いな私は絶対に大きい人たちに負けない!という闘争心もあり、どうしたらカラダが大きい人を超えるプレーができるか?そんなことばかり考えて野球をしていました。

中学校

中学校に上がると、部活も勉強も小学生の時と比べると本腰が入ってきます。

僕の学年は僕の地元では稀な勉強が出来ないクラスでした。(僕の地元は人数が少ない割に高学歴が多い)
いろんな先生から「この学年は本当に勉強が出来ないな」「授業中も煩いし動物園みたいだ」と言われていました。(笑)

僕の中学の部活は女子バレー部・吹奏楽部・野球部の3つしかなく、必ず部活に入らなければいけないという伝統がありました。

もちろん僕は野球部に入ります。

中学の野球部の先生はW先生。野球にとても熱く、そして愛のある先生で、野球部員から熱い信頼がある先生。昔は鬼のWと呼ばれていたみたいですが…(笑)

小学生の頃とは変わり、練習メニューもキツくなり、求められることも増え、頭を使いながら野球をするので、正直けっこう大変でした。今でも地元の仲間と集まると、この頃の話がお酒のつまみになったりします。

しかし野球のノウハウや技術、そして野球に対する遊び心を学びこの頃の経験が僕の野球人生の土台になっています。

中学3年生になると顧問の先生が変わり、野球をあまり知らない先生が野球部の顧問になりました。これはなかなか大変なことで、今までW先生に頼っていた練習メニュー、メンバー決め、戦略などを全て自分たちで行うことになります。

しかし全体のことを自分たちで考え、行動していくということは、今ではとても良い経験になったと感じています。

高校

◇友達を大切にしようと思えた友達との出会い

中学生の頃の僕は、自由奔放で“自分さえ楽しければ良い”という考えでした。
しかしある事、ある人物がきっかけで友達を大事にしていこうと決めました。

僕は埼玉県のそこそこ野球部が強豪な私立高校に入学し野球部に入部。

ショートを守る僕。ユニフォームの汚れが高校球児って感じする(笑)


入学したての部員の練習メニューは手伝いと走り込みだけでした。そんなある日走り込みをしていて足首が痛くなりました。その日を境に足首がずっと痛く、それが毎朝まともに歩けない位足が痛い…整形外科に行きレントゲンを撮ると、足首が骨折していることが発覚しました。

私は高校入学して早々1か月でケガ人リスト入り…今まで部活を休んだことのない僕は初めて数ヶ月の間部活を休むことになります。

同級生の友達たちが活躍しているのを横目にため息をつきながらリハビリと雑務をする毎日を過ごしていました。

学生の部活は2年半という期間の短さなので数ヶ月かかる故障は、大きな焦りと不安につながります。そりゃため息も出ますよね。

週に何度か病院に通っていた僕はあるとき医師の先生から、「この先休んでいても痛みはなくなるけど、時間もかかるし時々痛みが出ることがあるかもしれない。完全に痛みをなくすには手術する方が良いかもしれない。」と言われました。

少し悩みましたが「この先また痛みが出る可能性があるなら手術します!」と答え手術をすることにしました。

この時まだ15歳の僕は手術という言葉に、不安と怖さを感じていましたが、内視鏡でできる簡単な手術だったようでなんてことはなく手術を終え退院します。

手術を終え学校に復帰した時にある問題にぶつかりました。

「あれ?1年の教室4階じゃ…ね?」

1年生の教室は4階でエレベーターはないのです(泣)

松葉杖で4階まで上がるというのは足を怪我していなくてもハード。
そんな時に友達に冗談で「俺をおんぶで4階まで運んでよ」と言いました。友達は「良いよ」と言ってくれ実際に4階までおんぶで運んでくれました。

次の日の朝その友達は僕が来るのを下駄箱で待ってくれていました。次の日もその次の日も友達は下駄箱で待ってくれていて、僕の足のギプスが取れるまで朝と帰りに僕をおんぶして運んでくれました。

出会って1か月のクラスメイトにここまでしてくれる人がいる事に私は感激しました。この出来事がきっかけで私は、持つべきものは友だ…と実感しました。

手術してから4ヶ月間はリハビリ生活が始まります。
またもやみんなが試合で活躍している姿を横目で見ながら、マネージャーの仕事をし、合間の時間で復帰に向けてトレーニングをします。おかげでアイシングを作るのがとてもうまくなりました。(笑)
というか僕がプレーをしている姿を保護者の方やチームメイトが見たことがあまりなかったからか、僕のことをマネージャーと勘違いしている人が結構いました。笑

リハビリをしている僕は、「復帰した時に怪我前より、上手くなっているように練習をしよう。」と目標を決めリハビリに励みます。

リハビリの甲斐あってか、怪我から復帰し冬の厳しいトレーニングを越え。2年生になるとAチーム(いわゆる1軍)で試合に出るようになっていきます。
3年生が引退し、さあ自分たちの代だ!レギュラーだ!とトントン拍子にとはいかず、突然ボールが怖くなりイップスのような症状が出始めます。さらに怪我を連発し後輩にショートのレギュラーを取られてしまいます。この時はけっこうやさぐれていました。(笑)

ところがポジション変更を機に私はまた試合に出るようになります。

高校3年生になる年の3月、合宿の時に外野をした時に良いプレーをし、内野手から外野手になります。

外野手になった僕(右)

レギュラーメンバーで試合に出ることはやはり嬉しいもので、嬉しさと比例して調子も最高潮でした。

日本の高校球児が今までの苦労を形にする舞台、夏の甲子園予選。その2日前、疲れを残さないようにと午前だけの半日練習でした。

家に帰り私は何か物足りなく、家で父と自主練習をしていました。キャッチボールをしていた時に、突然肘から“ペキッ”という音がしました。音と同時に肘に激痛が走ります。

今まで感じたことのない肘の痛みに冷や汗が出る、焦りと不安から泣きそうになりました。

しかし大会は目前なわけで、思うような処置は出来ず、足の手術をした病院で「この整形外科で1番強い痛み止めをください!」と言って手術の後に使う痛み止めをもらいました。

大会は痛み止めとテーピングでごまかしやり過ごしました。初戦と2回戦は快勝しかし肘の痛みも無理に伴って強くなっていく。大会は3回戦で負けてしまうのですが負けた悔しさより、高校最後の大会にベストコンディションで挑めなかったことに悔しさと憤りを感じました。

高校最後の大会にベストコンディションで臨めなかったこと、これは誰にも言ったことはないのですが実は何年か引きずりました。(汗)

部活を引退した後は「さあ!遊ぶぞ!」となるのが普通?ですが高校に入ってから部活ばっかりしていたので、突然打ち込んでいた野球が無くなったことで、生活の中に目標が消え、燃え尽き症候群のようになります。

高校の友達は僕の家からは遠くなかなか遊びにも行けず、夏休みはほとんど寝て過ごしました。笑

そして、ここからがまた大変でした。

大会で強い痛み止めを使い無理をしたせいか、ボールが投げられないどころか肘が痛くて重い物を持つことも出来ず、ペンを持ち肘を曲げているだけでも痺れます。

大会期間中の無理が日常生活にも影響が出始めたのです。(泣)

大学でも野球を続ける予定だった僕は必死にリハビリしましたが、一向に良くなりませんでした。

肘を治す為に、整形外科・接骨院・スポーツ整体等、色々行きました。しかしどこへ行っても良くならないし原因不明と言われ…そして最後に足を運んだ整形外科では「良く分からないからとりあえず肘を切ってみよう。」と言われ、やるせない気持ちと、じゃあどうしたらいいの?とぶつけどころの分からない怒りの感情がありました。

しばらくして僕は、「誰もこの肘を治せないなら自分で治せば良いんじゃん!」と考え、大学で野球をすることを諦め治療家になる道を選びました。

僕は悩みに悩み最終的に開き直ってしまう性格です。(笑)
そしてその開き直りが今の仕事につながっているので、今になって思うと必要のない経験はないんだなぁと思います。

大学

治療家になる為に僕が選んだ道は、柔道整復師です。柔道整復師とは接骨院にいる先生です。
「肘が自分で治せるなら何の資格でも良いや、それに柔道整復師は国家資格だし、自分のお店も後々開けるし。」という軽い気持ちで柔道整復学科に入りました。

「大学は遊びに行くようなものだ」「授業サボっても、レポート出せば大丈夫だよ」

「ほぼ毎日サークルで飲み会だよ」「皆取っている授業が違うから深い付き合いの友達はサークル以外で作れないよ」「俺朝起きられないから毎日午後~しか授業入れてないよ」

私は大学に関して様々な情報を聞いていましたが、僕が通っていた大学は、高校の様に毎日1限から5限まであり、その授業が全て必修科目。

朝は6時起きで帰りは21時の生活で、しかも初めての電車通学!まともに1人で電車にも乗ったことがなかった田舎者には満員電車での通学は苦痛でした。泣

しかし学科のメンバーが取っている授業が一緒で毎日顔を合わせるので、高校生活の時のような楽しい大学生活でした。(笑)

国家試験の頃はみんなで毎日遅くまで学校に残り最後まで諦めず助け合い勉強したことはとてもいい思い出です。

国家試験の勉強中

肝心の肘はというと、日常生活での痺れや痛みは、大学の先生や自分で勉強し処置をすることで早々に改善していきました。

しかしボールを投げるときの痛みは全然消えませんでした。
そしてある時に1人の整体の先生と出逢います。この先生は後に僕が就職する整体の院長先生で、当時高校生だった弟をケガから救っていてくれた先生でした。

弟がその整体に通っていたことは知っていたのですが、僕も弟の紹介で通うようになり整体を受けたり、アドバイスをいただく事で、あの激痛はいつの間にか出なくなっていました。

この時僕は勉強していた接骨院ではなく、整体に興味を持ち始め大きな可能性を感じるよになります。

大学卒業そして社会人へ

大学を卒業し柔道整復師の資格を取得した僕は、資格の関係ない整体に就職します。その整体は、僕の野球肘を改善までさせてくれた整体です。

その整体に、いざ入社すると、なんというか…昔の証券会社のような…銀行のような…結構大変でした。(笑)

朝6時前に出社したこともありました。しかも帰りは12時近く!休みは週一で休みの日も予約を取らされたり…現代の奴隷のような生活でしたね。(笑)

少しだけキャリアと実績ができ信頼してもらえるようになってからは優遇していただきましたが、最初は結構恨んでいました。笑

その整体に入社し、最終的には1つの店舗を任せていただいたり、中学生の硬式野球チームのトレーナーをさせていただいたりと、貴重な経験をたくさんさせていただきました。

またいろんな人との出会いのきっかけをいただき、現在の整体サロン シンユウをオープンするきっかけにもなっていて、とても感謝しています。

独立しようと決意した27歳の誕生日

社会人5年目の誕生日、今でもすごくお世話になっている整体の師匠のセミナーに参加していました。その日はセミナーの後にみんなでお酒を飲みながら、ご飯を食べていました。

少しお酒も入ってきた時に、師匠に「自分のお店をオープンしたいんです。」というお話をしました、「いつするの?」と聞かれ、「30歳になるまでには…」とちょっと自信のない回答をしました。

その時に「2年後3年後とか言ってるやつは開業なんかしない方がいい!開業したいなら今からやってやるくらいじゃないと!さっさとやっちまえ!お前なら大丈夫だ!もしお前がダメだったら俺の見当違いだ!」とすごく背中を押してもらいました。

その時の瞬間は今でも鮮明に覚えています。鎖から解放されるような、世界に色がついていくような、不思議な感覚でした。いつかは僕もいろんな人の背中を押せるようになりたいと思っています。

そしてその翌々日に職場の院長に「今年いっぱいでこの整体を辞めて自分の店をもちたいです。」と想いを告げ、独立の準備を始めました。

いざ独立の準備をするとなると大変!やることがたくさん!(泣)

しかし1から自分自身の仕事を立ち上げ作っていくというのはとても楽しくやりがいがありました!

準備期間で特に印象的だったのが物件を決めるとき。

とある不動産にて、「駅から近くて…エレベーターがあって…広さはこれくらいで…」と店舗にするための部屋の条件を話をしていたら、「浅見さんね、そんな条件なんか1%位しかありませんよ!早くこの古い物件に決めちゃいましょう!」と言われなんか悲しい気持ちと怒りといろんな感情が頭の中で混沌としていました。

とぼとぼと家に帰る途中で行きつけの居酒屋に行き、女将と話をしながら、酔っ払った勢いでネットに乗っている物件とか不動産に片っ端から連絡し、その中で1件整体OKなマンションがありました。その物件こそが今のサロンです。笑

あの時、片っ端から連絡してみてよかったと本当に思います。

そして月日が流れ2020年3月31日に退職をし2020年4月5日無事整体サロンシンユウをオープンすることができました…

そう2020年4月5日は第1回緊急事態宣言の2日前!(泣)

開業のタイミングで新型コロナウイルスとかいうインフルエンザの親戚みたいなちょっとあやしいウイルスが世界で流行り始めたのです。(汗)

オープン前というだけでもドキドキなのに、加えて未知のウイルス…不安で心臓がバクバクして眠れない夜もありました。しかしオープンしないという選択肢は僕の中にはなく思い切ってオープンしました。

開業前に勤めていた整体の常連さんたちがみんな僕についてきてくれて、ほんと嬉しかったなぁ。(しみじみ)

その時に「僕は本当いろんな人たちに支えられて生きているんだなぁ。」と心の底から実感しました。コロナウイルスは僕にとっては人と人との繋がりをより実感させてくれるきっかけになりました。

今はありがたいことにコロナに負けず元気に営業しております。これもみなさんに支えられているからだと強く実感しております。

今のところ僕は、こんな人生を歩んでおります!お越しいただいた際にはどうぞよろしくお願いいたします!

整体サロン シンユウ 浅見容甫

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